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集英社新書WEBコラム 在日一世の記憶

趣旨文
「在日」という呼称があります。ここでいう「在日」とは、朝鮮半島に生を受けながらも日本の植民地政策に起因して渡日し、現在にいたるまで日本に残留せざるを得なくなった人たちおよびその子孫たちのことを指します。
 そして現在、故郷から遠く離れ、玄界灘をわたってきた「在日」の第一世代、すなわち「在日一世」の方々は、その数奇な歴史体験とともに、表舞台から静かに退場しようとしています。
 2003年の末ごろから、私たちは一世の貴重な証言を記録し後世に遺すべく、いくつかの勉強会や準備を重ねてきました。
 在日の口承記録としては、これまでに、『在日を生きる』(金時鐘)をはじめとするいくつかの自叙伝や、『百萬人の身世打鈴』『100人の在日コリアン』『写真集 在日一世』などの画期的な仕事があります。
 そんな中、私たちは、生活史だけでなく、彼らの社会的諸活動の歴史を掘り起こすことも目指し、一人当たりの記事の分量をなるべく豊富にすることで、既存の在日像とは違った側面を浮き彫りにすることを心がけました。
 今後は、聞き取り原稿が完成次第、随時ウェブ上に公開していくことになりますので、連載ペースは不定期となりますが、最終的には総計50名ほどの聞き取 りを予定しています。また、連載終了後は、書籍用にあらためて編集を施した上で、集英社新書編集部より刊行することになっています。
 日本人と「在日」は同じ時代、同じ現場に生きた人々でありながら例えば「1945年8月15日」という日の体験一つとってもどのように記憶しているかは 全く違っています。そのことの重大な意味について私たちは60年以上もの間、深く見つめることなく年月を積み重ねてきてしまったのではないでしょうか。 「戦後」あるいは「解放後」と呼ばれてきた時代が終わろうとしている現在、この在日一世のおそらくは最後の口承記録が、歴史書の棚に収まるだけではなく、 日本人と在日、そして朝鮮半島の人々にも共有可能な、新たな未来像を構築するための一助となることを期待します。

第五十二回 「幻のフィルム」を蘇らせた記録者

高仁鳳 (コウ・インボン) 男性
取材日/二〇〇七年二月一三日、三月一日
本籍/ソウル市永登浦区 現住所/大阪市
生年月日/一九四一年五月一日
略歴/大阪で生まれ、一九四七年に全羅北道裡里市に移住。五七年、日本に渡り、白頭学院建国中学校、高校卒業。プラスチック関連業界紙の仕事をしながら大 阪経済大学経営学部夜間に通う。六八年、印刷会社僑文社を継承。八九年、ケイビーエス株式会社に改組し代表取締役となり、現在取締役会長。白頭学院建国学 校理事、校友会副会長。二〇〇五年、戦争直後の建国学校草創期の模様が撮影された「幻のフィルム」の映像をもとに建国創立六〇周年記念事業としてドキュメ ンタリー映画を製作。
取材者/姜志鮮  原稿執筆/姜志鮮

▼幼いころの一時帰国

 わたしは一九四一年五月一日に大阪で生まれたけど、四七年に母と九歳上の兄インス(仁守)と一緒に韓国全羅北道裡里市(現、益山市)に渡りまし た。父は商売をやって小金を持っていたけど、あのときはそれを持って帰れなかったので、日本に残りました。終戦直後は皆早く帰ろうと急いでいたし、子ども らは学校に行かなければならないから、三人を先に帰して、父はお金をうまく整理してから帰ろうとしたわけです。
 ところが、韓国映画「ブラザーフッド」(原題「太極旗を翻して」)のように、一九五〇年に朝鮮戦争が起りました。帰国後、わたしは裡里中央小学校一年、 兄は中学三年に入ったんですが、一・四後退(脚注参照)が起きて、若者はみんな軍隊に引っ張られました。兄は高校一年のとき、兵隊に引っ張られて、母とわ たしの二人だけ残ってしまいました。お母さん、いろいろ苦労したと思いますね。病気になったけど、なんの病気かわからないまま、一九五二年に亡くなりまし た。母と兄と一緒に撮った写真があります。母の写真は三枚しかないけど、一緒に撮ったのが一枚あって。韓国に渡る直前に撮ったようです。写真の裏に「昭和 二二年四月三〇日写す」と書いてあります。
 小学校三年のときでした。授業が終わり、家に帰ろうとして全員が先生に別れの挨拶をしようとして、「ソンセンニム(先生)、アンニョンヒ ケ…」と言ったときにパン!と大きな音がしてわたしは気を失ってしまった。爆弾が落ちたんです、後でわかったけど。
しばらく経って目覚めてみたら教室はだれもいなくて埃だらけでした。学校の外に出てみると、皆右往左往しているわけよ。「大変だ」と急いで家に帰ったら、母が「帰ってきたか。よしよし」って。
 兄さんも家に帰ってきたが、皆じっと家の中にいるわけにはいかんから、小山に登って、どこが火事になったかと見たら、裡里駅が燃えているのよ。そのとき に飛行機が来て、兄さんが「あ、あれは米軍。わが軍の飛行機やで。逃げんでもいい」と言ったけど、米軍の飛行機は爆弾を落として鉄道を破壊してしまいまし た。北が来るのを遅らせるためだったというのですが、そのときに多くの人が死んだんです。そのとき死んだ人のために、あとで慰霊碑が作られました。兄は軍 隊に引っ張られ、母も亡くなって、僕はしばらく叔父さんのところで世話になりました。
 一九五四年にソウルに兄を訪ねて行ったとき、僕は手紙を送っているんです。「僕は今ソウルへ上がってきました。いま、ソウル駅前でこの手紙を書いていま す。僕はお兄さんが下宿している家を探しています。お兄さんがなんとか探して下さい。ソウルには九月一九日に来ました。今僕はお金がないので、お腹を空か しています。九月二〇日 仁鳳より」。この手紙を兄さんはずっと持っていたんです。一九九一年に亡くなったけど、兄さんが住んでいた家の倉庫の段ボール箱 で見つかりました。僕は兄の友達の家に約一週間世話になっていたんですが、そこに手紙が来ましたわ。「弟が今ソウル駅でうろうろしているから、訪ねてきた らちょっと世話してやってくれ。きちんとその恩は返しますから」って。
 父からは五三年二月一〇日に、別れて七年ぶりに、兄宛に「もうちょっと安定してから日本に来なさい」という手紙が来ました。僕は小学校三年から、ソウル 中区の首都劇場(現、スカラ劇場)の裏にある散髪屋に住み込みで働いていました。そしたら兄が「お前は学校へ行かなければならない。勉強せねばならない」 と言って、父と連絡を取って、「お父さんのところに戻りなさい」と言ったから、日本に戻ったんです。兄はそのまま韓国に残りました。休んだり、やめたりし たらもう就職できないから残ったのです。でも今考えたら残って良かったかもしれません。子どもも二人生まれ、韓国で立派になっていますからね。
 僕は五七年五月一日にソウルを出発して、大阪に着いたのが七月三日でした。僕はずっと日記を書いてきました。その日記が束になっています。しかし残念な がら、日本に来る五七年の四月ごろから八月一四日まで書いた分を失くしました。そこに全部、どのようにして船に乗ったとか書いてあったのに、それがなく なっちゃって残念です。全部ハングルで書き込んで、汚い字だけどね。一人での密航でしたが、楽しかったよ。麗水で日本に行く船に乗るのを失敗、統営でもま た失敗して、何とか帰ってきたわけね。
 密航してくるときに対馬に一週間か一〇日間ほどいました。夜は炭小屋で泊まるけど、昼間は山に隠れて、次の船が来るまで待つんです。炭小屋の人が飯を 持ってくるんだけど、そのときご飯を包んだ紙がハングル文字の新聞紙でびっくりしました。「われらのキム・イルソン(金日成)元帥、云云」。え〜。日本で なぜこんな新聞があるのか不思議でたまらなかった。それは朝総連(在日本朝鮮人総連合会。脚注参照)系の朝鮮新報だったです。韓国では考えられないことで した。

▼白頭学院建国学校(脚注参照)での生活

 日本に来て建国中学校二年に入りましたが、それまで約六年間学校に行ってませんでした。だから小学校三年生から中学校二年生の間、ブランクがあった。日本に来たけど、父は全然韓国人との付き合いがなかったし、日本での韓国、朝鮮の学校の区別もあまりわかっていなった。
 父は大阪でパンの配達をしていて、「高山」という通名を名乗っていました。もちろん朝鮮人はみんな通名を使っていた時代だからね。でもわたしは「高」と いう本名を使い、高山は使わなかった。それが普通だと思ってね。しかし父は死ぬまで高山だった。僕が日本に来るまで、父は民団(脚注参照)も知らないし、 付き合いがないのよ。僕が来て民団を教えました。パスポート作って、それから韓国行って、故郷の済州道にも行って。懐かしいから、「死んだら自分をそこに 埋めてくれ」と言いだした。今は済州道に父と母の墓があります。父は済州道で生まれ、二〇歳ごろから日本に来て、結婚して住んでいました。
 僕は学校に行きたいと思って、父に話して、朝鮮学校を探して行ったら、朝総連の中学だから金日成元帥の写真が掲げてあった。変だな、日本には韓国系の学 校はないのかな。それで父が誰かに建国学校は韓国系の学校みたいと聞いてきました。それで、建国に行くと金日成の写真もなければ、人民共和国の旗もないか ら、「ここは韓国の旗なんだろうな」と思って入ったんです。でも全然、わからない。隣に座っている子に「おい、ここの旗はいったいどんな旗やねん」と聞い たら、「え?太極旗違うか」って。僕の太極旗に関するこだわり、ある意味では意識が強かったとも言えますね。韓国から来て、どうしても太極旗がある学校に 入りたいということで建国学校に入ったのに、そこは太極旗がある学校じゃなかった。国旗がない学校でした。
 終戦後、間もなく南北両方の国ができて、それから建国ではいっさい旗を揚げなかった。というのは、祖国というのは全体が祖国であって、韓国だけ、あるい は北朝鮮だけではないという、どちらかに決め付けない教育方針だったからです。一九七二年ごろ、この理念が変わって、今では韓国系の学校になっていますけ どね。当時、建国は押し付けをしない要するに自由で、教育方針は自主でした。だから国を選ぶのは自分で選ぶ。共産主義思想を持ってもかまわない。そこが建 国の素晴らしいところです。
 僕らが建国高校を卒業して大学行ったときは、在日の場合でも多くの人がね、押し付けをした。旗のマークから、金日成が言うことは全部正しいということに なってしまう。それがどうも僕には理解ができない。矛盾なんです。そりゃ、正しいかも知らないけど、間違うこともありうる。人間だから。それなのに、すべ てが正しいものだと思い込んでしまう。建国の教育ではそんなことはありえません。僕が韓国で学んだときは、やっぱり反共、とにかく北が悪いという感じでし た。でも、僕は上から決め付けるのは正しくないと思うんです。悪いかどうかは、見て考えて、自分で悪いかどうかを考えるべきです。
 高校のとき、新聞部に入ったけど、これがむちゃくちゃ面白い。私学高校新聞連盟のコンクールに出して、入選したりしました。それがものすごく楽しかった。今もいつもビデオカメラ持って、何かニュース的なことがあったら、撮ったりするわけですけどね。
 先生も親身になってくれて。同じ国の人やということもあるけど。担任だった先生はいまでも親しくしています。もう近くには住んではいないんだけど。僕が 学生のときは、先生もまだ青年でね。家に行って先生が炊いてくれたご飯食べたりしてね。また音楽の先生とは、家によく行ったり、その子どもさんたちとも親 しくなったり。僕、「先生になってもいいな」と思いました。大学で教員免状をもらったからね。

▼就職、大学進学、そして結婚

 でも、高校を卒業してからは就職せねばならないから、僕らが作った建国新聞を持って就職活動をし、サラリーマンになりました。プラスチックの業界 紙を作るところでした。一〇ヶ所以上回ったけど、履歴書は本名やから、ほかのところは全部だめだったんですが、就職できた会社の社長がえらい人でね。僕が 「親父が使っている日本名がありますから、通名にしましょうか」と聞くと、社長は「何やね。お前、本名があるのだからそれを使ったらいい。何で通名使う ん。本名使っていいよ」と言ってくれました。
 その新聞社に入った一年後に大学に入りました。昼間はその新聞社で働きながら。社長に言ったんです。「僕、大学に行きます。夜間に」。そのとき夜間大学 に行くためには四時半には仕事を終えなければいけなかった。しかし新聞社というのは夜遅くまで働いています。社長が「お前がもし日本人だったら、わたしは 許さなかったけど、お前はこれから在日同胞を背負っていくべき人間やから許す」って。こんなことで大学に行けたんです。大阪経済大学。とにかく授業料が安 いところを探してね。専攻は経営学部。僕は大学受験のとき、試験受けながら写真を撮ったのです。そのときそのときの記録を残すのがその時から好きでした。
 大学に通いながら、今の妻と教会で出会い、付き合いました。教会には女性がいっぱいいるから、行ってたんですね。そのときは大阪教会(脚注参照)に通っ ていました。教会の組織の中に関西連合会という青年会があって、妻はよその教会からも来て大阪教会で聖歌隊の練習をしていました。たびたび彼女が来ていた から、「お!かわいいな」と思って。それで付き合って一九六七年に結婚しました。
 結婚した年に僕は僑文社に入りました。もちろん就職していたところもすごく楽しかったんですけど、将来は出版社をやりたかったのでやめたんです。僑文社 というのは印刷会社で、その時は先代の社長でした。在日大韓基督教会が福音新聞(脚注参照)を出すために作った会社でした。会社といっても、西成区にある 教会の裏庭の小さな九坪の工場でしたけど。そのとき社長は同時に民団の文教部長をやっていて、印刷の仕事には身が入らなかった。それで僕に「あと継がん か。これ買わないか」と言ってくれた。「それじゃ、僕が買います」。妻にも話したら、「それじゃやりましょうか」と言ってくれました。
 僕はあまり印刷にくわしくないし、妻だって同じ。だから、職人を一人雇って始めたわけね。韓国語の活版印刷の設備と機械一式がありました。ところが、一 九六九年に西成教会が教会を立て直すことになり、出て行かなければならなくなった。もともと建物・土地の権利はなかったので何の補償もなかった。生野区桃 谷の父の家を工場にして引越し、妻は活字を拾い、僕は機械を回して僑文社を始めました。

▼僑文社からケイビーエス株式会社へ

 僑文社を立ち上げて、まずハングルを始めました。コンピューターを利用して、ハングルを何とかせねばならないなと思ったのです。東芝で日本語の ワープロができたが、それが当時、七〇〇万円でした。でも、これは素晴らしい、印刷の入力に使えるなと思ったわけ。というのが、僕は文字を拾うのが苦手で したから、楽に字を探せる方法、できればキーを利用して文字を探せる方法があればと思っていました。だから、ワープロができたと聞いたとき、「これはすご い。文字の入力にワープロを使おうじゃないか」と考えました。「日本語ができたら、韓国語もできるに違いない」と。それで電算写植といって、印刷の文字を 拾う、文字を組み合わせる、そのような機械を考え出したんですよ。発明というよりも、アイディアやね。
 一九八一年に角川書店から『朝鮮語大辞典』の印刷依頼があって。これは字を一個一個手で拾ってはできっこないと思いました。それでコンピューターを利用 しようということになり、写植機メーカー、モリサワに話を持っていったら、「やってみてもいいな」ということになりました。
 ちょうどそのころ、パソコンのワープロソフトで、コアハングルというのができて、それを入力機に使うことで電算写植用変換ソフトを作りました。当時、だ んだん日本も国際化してきましたが、一九七〇年万博のパンフレットは英語と日本語しかなかった。多言語になってなくてね。一九八二年には韓国よりも早く、 ハングル電算写植の入力機が完成して実用化に成功したわけ。『朝鮮語大辞典』にも、僑文社の皆様に感謝しますと書かれています。この仕事は大きな意義があ りましたね。
 一九八四年にNHKラジオの「アンニョンハセヨ ハングル」が始まったときかな。東京の出版社の三修社が月刊雑誌『月刊ハングル』を出したいと、見学に 来たんです。ところが会社は小さくて社員も五〜六人やし、とにかく町工場だったからね。帰ってから返事がなかった。それで僕が東京に三修社を訪ねて行った わけ。専務というのは社長の弟で、会いに行って「僑文社ですよ。どうですか」って聞きました。そしたら、「実はな。小さな町工場だと聞いている。とても月 刊雑誌作れるところじゃないな。そう思う」と言いました。僕はそこで、「僑文社で作れないんだったら、どこも作れませんわ。どこの会社、どこの雑誌でもみ んな手でやっているわけで、僕はコンピューターでやってますよ」と言ったら、「え、お前、マイコンのこと知っているのか」。ここで話に乗ってきてね。それ で、このような話があって、絶対コンピューターで字を拾わなければならなかったので、モリサワで電算写植機を作りましたよと、そんな話をした。そうすると 「今晩飯でも食べよう」ということになって、飲みながら夜中まで話し合った。あとで返事が来たから、「よし、やろう」って。それで三修社の仕事を取ったわ けです。
 だんだん日本が国際化してきました。花博(国際花と緑の博覧会。一九九〇年)からいろんな言葉を使うようになってきて、今では多言語が一般化されて、い ろいろな案内が多言語を使うようになりました。そのようなお客さんからのニーズがあり、「韓国語ができるんなら、中国語もできるんじゃないか」というから 「そうやな。やろう」と思ったわけね。
 一九八九年に会社名をケイビーエス株式会社に変えました。僑文社の頭文字を取って作ったわけですよ。これが韓国の放送局と同じで名前で、KBS。しかし 韓国の社名はKBSではなく、韓国放送公社やね。うちは初めからケイビーエスが社名です。全然違う。それで一回聞いたら忘れない。「韓国の放送局じゃない んですか」と聞かれたら、「あのKBSは韓国のKBSやけど、うちは世界のケイビーエスです」と答えます。この名前、絶対覚えやすいからね、勘違いしてく れると、またうれしいわけよ。世界共通のケイビーエス。一九九四年には、僕らがやっている多言語組版システムが日本経済新聞、朝日新聞にとりあげられまし た。私が僑文社を始めた年に長男が生まれたので、彼の年が結局KBSの年数なんです。来年で彼が四〇歳、僑文社も四〇年。

▼「幻のフィルム」との出会い

 建国の友達や同級生とは深い繋がりがあって、ずっと続いてきました。妻は民族学校に行ったことないし、僕と一緒になってから初めて建国関係者と知 り合うようになってね。結婚式のときも、世話してくれるのは皆建国の同級生とかで、それで好きになってね。子ども三人皆、建国に行かせました。多くの人が 妻も建国の卒業生と勘違いするぐらいになったからね。また印刷屋としてずっと建国学校の印刷をほとんど引き受けました。証明書とか卒業証書とかの印刷物や 文集とか記念誌も引き受けていて、妻も読んでいるから自ずから内容がわかる。建国には、卒業後にも運動会とかに行った。子どもが通うようになってから再び 深く関わるようになりました。父兄ですからね。小学校に入ったら小学校のPTA会長になったり。今は学校の理事や、校友会の役員もしています。
「幻のフィルム」との出会いはね、偶然だった。本当に、偶然。二〇〇五年に、二〇〇六年の建国創立六〇周年のために記念誌委員会を作ってね、委員長になっ たんですよ。委員長になったから、原稿を集めたり資料を集めたりするわけでね。ある日、交友会の事務室に行ったら、机の上にフィルムの入った段ボール箱が あって、その中のフィルム缶に「一九四六年 建国生の一日」「一九四七年 二周年八・一五記念誌式典」というメモがあった。それを見てから「ありゃ〜、こ れはすごい」と思って、これを記念誌の参考にしようと調べ出したんです。
 実は建国の四〇周年のときにこのフィルムの存在を先輩が知って、彼も私と同じく、彼はこれを何とか編集しようと持って帰って、忘れてしまったんです。
 なんで再びこのフィルムが見つかったかというと、その前の年に先輩が亡くなり、家族が荷物を整理したら、段ボール箱が出てきた。「これは建国のもんや な」って学校に送ってきたわけです。それで校友会の事務所に学校の人が持ってきて、置いて帰った。そして校友会の事務所にたまたま寄った僕が偶然フィルム を見つけたわけ。二〇〇五年九月一〇日のことでした。
 当初建国創立六〇周年記念誌は校友会の機関紙『白友』のような簡単なものを作ろうとしましたが、幻のフィルムによって考えが一変して、やっぱり六〇周年 は節目だし、建国の歩みをきっちり記録するべきだと思いました。僕が持って帰った箱の中身は、昔の写真とともに、一六ミリのフィルム七本と八ミリフィルム 八本でした。一六ミリは一時間、八ミリも合わせると全部で三時間ほどの長さに相当します。九月二九日、フィルムをデジタル変換業者に頼んで変換してもら い、その内容を見て「これはすごい!」と思いました。
 フィルムに映っていたのは戦争直後、白頭学院初代理事長の゙圭訓(チョ・ギュフン)さんが手がけていた播磨護謨合資会社や紡績工場などの様子でした。こ こで働いていたのは皆同胞で、徴用で日本に連れて来られ、解放直後、行き場を失った朝鮮人約二〇〇〇人を゙理事長が引き受けたと聞いています。建国学校の 草創期を記録したのもありました。
 フィルムの内容はこんな具合です。まず、一六ミリフィルムの中身から。
 一本目は「建国生の一日」。ここでは天王寺から阪和線に乗って、杉本町駅で降りる学生の風景から授業風景、運動場を整備する姿が映っていて、最後には杉本町駅から帰るストーリーになっています。
 二本目は「解放二周年記念行事 第一回朝鮮陸上競技(建中)」となっていて、一九四七年八月一五日の第二回解放記念式典が大阪中之島中央公会堂で行われ た様子や朝連(在日本朝鮮人連盟。脚注参照)の主催で建国中学をはじめ、朝鮮中学などが中百舌鳥運動場で行われた体育祭の模様でした。
 三本目は「朝鮮建国中学校第三回秋期体育大会 第二回文芸祭 一九四八年一一月一日」。これはケースに描かれたタイトルではないが、映像の中にこのタイトルがありました。
 四本目は播磨工場で働く風景、ゴム工場で働く様子です。ゴムだけではなく、白頭レコード、紡績や薬品事務所の風景と白頭学院を創設した白頭同志会の会議の模様が映っていました。
 次の五本目から七本目の最後までは、「第二回招待陸上競技大会 一九四七年一〇月二八日」があって、ここに市岡運動場で行われた競技の模様や僕が中学高 校卒業するまでに学んだ木造校舎、船や播磨工業所の運動場でのサッカー試合。それには李慶泰(イ・ギョンテ)初代校長や朴燦時(パク・チャンシ)先生が 映っています。白頭同志会の青年だろうか、祖国解放を喜び、隠していた太極旗を振ってバンザイを叫ぶ場面や、日の丸をおろして太極旗を揚げる場面もありま した。一九五六年体育祭の模様、そして最後は一九五七年四月二日、朴哲(パク・チョル)先生の葬式の模様でした。
 八ミリフィルムの中身は、一六ミリフィルムからあとの時期のもので、四〇周年記念式典や御堂筋パレードの模様。このときは一九八八年ソウル・オリンピッ クのPRのため建国生が多数出ました。林間学舎のプールで泳ぐ場面、建国祭の映像、第一八回文芸祭、金剛山雪の中の登山、高校入試の様子、一三期卒業式の 風景、一九七八年一二月二七日の木造校舎を中心に撮影した映像や、第一七回校内音楽会、一九六三年一八回体育祭と文芸祭の様子などが記録されています。
 以上が「幻のフィルム」の中身です。僕はこれらの記録映像を建国生だけではなく、在日同胞、日本の人々、また本国の人たちにも見せるようにしたかった。 そのために理事会に諮ってドキュメンタリー映画を製作することになりました。でも、もしこれが一〇年前の五〇周年のときだったら、やったかどうかわからな いです。本当にちょうど良いタイミングでした。六〇周年のときには、僕に時間があるし、できる時期にもなったし。普段もビデオカメラでずっと何かを撮って いるし。

▼ドキュメンタリー映画の誕生

 まず作業としては、状態は綺麗だけど音は全くないし、中身がわからないから、各場面と合わせて番号を振って、内容の聞き取り調査をしたわけ。何分 何秒まで刻みながら、細かく場面を分析してやっていく作業は校友会の人と一緒にやったけど、結局皆に見せるためには編集せねばならないと思って、知り合い の日本の人に頼んで、一緒に作業をしてもらいました。登場人物の名前や学生の名前は、先輩たちに映像を見せて、「わたしや」と言ったら、その度に記入し て。何回も何回も見て内容を把握しました。このときの校友会の会長がすごく協力してくれました。インタビューをするためには、あちこち行かなければならな い。東京へ行ったり、東北、岩手の先輩を訪ねて行ったり、北海道も行ってきました。その経費を全部この先輩が同行し負担したのです。
 フィルムの編集が終わってから今の学校の授業風景とか、学校の模様とかを撮影して、それを編集して作ることにしました。「過去、現在、未来」というテー マを立てて、テーマに則って作っていきました。過去のこと、現在、今の状況、そして未来のこと。未来に向けてのことをやろうと。
 六〇周年を迎えて、建国学校が引っ越そうという計画がありました。今の約三倍の広さがある八尾南高校というところを買う約束をしたんです。そこに引越し して、できれば野球部も作ったりしようじゃないかという計画があったけど、結局だめになった。本当はこの映画の中に青写真を入れてやるつもりでした。未来 の青写真にはアニメーション的なもの、CGを作ってやろうと思って。野球部も作って、建国生が甲子園に出て優勝して。建国の校歌は韓国語ですから、優勝し てそれが甲子園に流れることまで考えたんだけど。それができなくなったから、流れを変えずに、ただ言葉で「未来はまだ進んでいきます」としました。「幻の フィルムでつづる建国の六〇年」というタイトルは、一緒に作っていた人が考えました。ナレーションも建国の卒業生に頼みました。できるだけ建国の関係者で やりたかったから。どうしても僕が韓国語版を作りたいと思ってね。まず日本語版を作って、あとで韓国語版を配るために。
 韓国語ナレーションは建国の在校生なんです。学校側に「誰かいませんか」と聞いたけどなかなか見つからなかった。卒業生でもいいから韓国語を話せるよう な、できれば標準語で話せるような人を探していました。初めは先生にお願いしようと思って、五人の先生をテストして、標準語をしゃべる先生がいたので、そ の人に決めて、学校の近くに座っていました。そしたら学校から子どもたちが出てきて、その中のある子がね、「ア〜、ペコパ!(お腹すいた)」って。その声 がなかなか悪くないなと思ったから、「お前、韓国語でナレーションやってくれないかな」って聞いてみました。最初はいやいやと言っていたが段々やってみる 気になって。そして彼が「もう一人、わたしよりもっとうまい人がいますから紹介します」と言いました。最初は男子だったけど、次は女子を連れてきて、それ でやってみると、「あ、いけるな」と思いました。結局在学生の女子でナレーションをやることになりました。本当にいいナレーションでした。
 音楽もまず学校の先生に聞いたわけ。「だれかいないですか。音楽できる人いませんかね」と聞いたら、金智子(キム・チジャ)という子がやっていると。そ の金智子さんのお母さんが校友会の役員をしていたから、校友会でよく会うわけで、それでそのお母さんに聞いたら、「娘は今東京におります」って。それで、 電話して。「実は幻のフィルムの編集をしている最中で、音楽を担当してくれる人を探しているが、やってくれないかな」と頼みました。そしたら彼女が来てく れて、編集したのを見せたんです。やっぱりフィルムを見たらね。建国生であれば、建国生でなくてもそうだけど、みんな感動するものです。見た感じで音楽を 作曲してくれました。まずは作詞。「消えない時間」って。歌詞を紹介しましょう。

 何にもなくて 失うものさえ
 陽炎眺め 泣いた日々
 見上げれば 蒼い空
 こんなはずではないと砂を噛み
 空き地の隅に目をやると
 ムグンファがほら咲き誇る
 消えない時間に寄り添いながら
 生きれる気がした 歩き出せる

 昨日のわたしが嫌いでも
 明日好きになればいい
 前を見て どんなに辛くても
 見えない不安に怯えるよりも
 胸を凛と張り 歩き出そう
 厳しい時代を駆け抜けたなら
 許せるでしょう 譲れるでしょう
 消えない時間に寄り添いながら
 生きれる気がした 歩き出せる

 この映画を作るとき、二人が手伝ってくれました。一人は編集関係をやっている人で、もう一人はときどき来て手伝ってくれたんだけど、その人が「音 楽とかナレーションに素人を使ったら、せっかくの映像が映えなくなるよ」って言うんです。初めはそうかなと思ったけど、金智子さんから「曲ができた」と 言って送ってもらったら、「あ、素晴らしい。うん、これは絶対いいな」と感じました。
 僕の気持ちとしては、できるだけ卒業生か、建国と関係ある人にナレーションもやらせたかった。日本語ナレーションの郭允美(クァク・ユンミ)も、建国の 卒業生でナレーターとして仕事をしている。何度も熱心に練習してくれた。最後になると、本当に素晴らしくなって。音楽担当の子も感激してね。自分の学校が こんなに、手作りで、自分の手で作ったんだと。彼女は作詞・作曲をし、自分で歌ってくれました。
 これを制作しながら一番苦労したのは、時間のことでした。初めは何も決まっていなかったが、六〇周年記念式のプログラムを決めるときに、時間が三〇分し かないと言われました。三〇分という限られた時間の中で表現することが難しかった。これも出したい、あれも出したいという気持ちで。
 完成した映画も自分としては上出来だと思うけど、今見たら、これも出した方が良かったんじゃないかな、あれも出した方が良かったんじゃないかなと、いろ いろと思いが走るね。九月に見つけて、翌年の五月三〇日上映まで、九ヶ月間、僕は朝から晩まで、何回も見直し、映画のことばかり考えて過ごしました。記念 式典で上映されると、皆とても感動して、多くの人が「これは良かったな」と言ってくれました。この幻のフィルムのことは日本や韓国の多くのメディアに取上 げられたけど、おそらくその理由は、終戦後いち早く在日同胞の民族教育のために開校した建国の姿を伝える記録フィルムが、建国だけではなく、在日社会、広 くは日本社会、韓国社会にとっても貴重な歴史の財産だったからだと考えられますね。そして、この「幻のフィルム」をできるだけ多くの人に見てもらいたいと 思ってダイジェスト版ですが、ネット(http://www.inbong.com/2007/kenkoku/)で見られるようにしました。そしたら名古屋市のある方からこんな内容のメールが来ました。
「現在の日本人が、自分の国がしてきた事実を知らずに、国家を語ることは、土台を築かず家を建てることに等しい。私たち日本人と称する人間が、歴史を通して、国家、人間社会を学ぶ。このためにも、大変すばらしい、教材になると私は思いました。
 どんどん、日本中に、転送が広がることを祈ります」こんなメールを見ると、とてもうれしいですね。

▼今後の夢

 今後、できたら民族教育についてのロングバージョンを作りたい。今回は建国六〇周年記念事業として制作し、DVDは記念誌に挿入して配った。とき どき上映会をやったけど、全然知らなかったという人が多いね。できれば日本の人にも韓国の人にも見せたいね。そのためにはもっと一般化して見せられるよう なものにしたい。今は三〇分だけど、九〇分のものにして、できればDVDに作って販売できるようにしたらいいなと思っています。
 在日、まず建国やね。あとは韓国系の学校、京都や東京にもあるし。朝総連の学校も取材したい。それから日本の学校も。それと、中国の延辺朝鮮族自治州 (脚注参照)に行ったら、そこの民族学校もまた六〇周年や。同じように終戦後にできているからね。あそこも取材して残したいな。
 ロシアでは「高麗人」と言うんだけど。高麗人学校ができていますね。ほとんどが国籍はロシア人になっている。それなのに韓国語を勉強しなければいけな い。できて一五年しか経ってないけど、すごく立派にやっている。ロシアも取材できたらいいなと思うね。そのような学校は、やっぱり記録を残しておくべき じゃないかな。
 中国の延辺朝鮮族自治州にある延吉(州都)というところでは皆、ウリマル(母国語)を喋っているわけね。そしてほとんどが民族学校に行っています。それ なのに国籍上は中国人。でも朝鮮族学校行っているし、自分らで「わたしは朝鮮人だ」と言っています。ところが日本に住んでいる人たちはほとんどが民族学校 には行かないし、自分が朝鮮人だとも言わない。国籍は「韓国」または「朝鮮」でありながら。それで、「あ、違うな」と思いました。
 それで今は、映像表現をどのようにすればいいかとか考えながら勉強しています。映画監督に会ったり、撮影現場にも行ってるし。そして、ほかの夢はね。足が動く間にもっと多くのものを見たい。そしてもっと撮りたい。何でも撮りたい。

▼僕と太極旗

 幻のフィルムの前半に、祖国の解放を喜んで、太極旗を振っているシーンがあるけど、あの太極旗は北と南と分かれる前のときのものです。韓国がまだ できてないときの太極旗なわけ。あの太極旗は、「朝鮮独立万歳」のときに使った太極旗なんです。日の丸を塗りつぶして、その上に描いた太極旗なんです。そ れがすべてを物語っています。
 僕自身、小さいときからずっと太極旗に親しんできたし、今も壁に掛けたりしています。でも国粋主義者ではない。ただ、皆さんもそうでしょうけど、外国に 行ったときに、「エグッカ(愛国歌)」と「テグッキ(太極旗)」が揚がる瞬間などは心がジーンとなる。スポーツ大会で韓国が優勝して太極旗が揚がるとき、 なんとも言えない気持ちになる。あれは仕方ないね。
 僕は韓国に行ったり、日本に戻ったりして生きてきましたが、それ以上に不幸なのは、国が二つに分かれたことです。しかも在日までが二つに分かれたこと、 それがものすごく不幸です。もちろん、祖国というのは韓国であって、あるいは北朝鮮でもあるわけで。それはおいといて、ここ日本では別に一つになってもい いんじゃないかなと思うんだけどね。
 僕の考え方は、人生は一回しかない。いまこの場、この時間というのは二度と来ないから、できればそのときを嫌な思いで過ごすんじゃなく、楽しく過ごした 方がいい。死ぬときにできるだけ後悔のないように。「いい人生だったなあ」と言いながら死ねればいいな。だからそのときそのとき、精一杯生きていくです。
 映画「ブラザーフッド」を見てから、二〇〇四年七月、「昔を思い出したから尋ねて行こう」と言って、妻と一緒に韓国を旅行しました。昔、僕が一人で日本に渡った道順を逆にたどってみたんです。
 釜山から入り、統営、麗水、木浦、そして名前が益山と変わっている裡里、安養、ソウルに行き、ソウルから大阪に帰って来ました。僕はこの太極旗のマーク が付いている、韓日ワールドカップのときに韓国人ならだれも着ていた赤いTシャーツが好きでね。世界のどこに行くときでも着て回っているんですよ。太極旗 に関してはすごくこだわっています。なにか知らないけど、オル(魂)を感じるんです。
 もし僕が韓国にいたらそんなにならなかったかもしれないけど、一度朝鮮戦争を経験してから、日本に来て、それからずっと太極旗をすごく意識するようになりましたね。要するに、太極旗にこだわるというのは、自分が韓国人やということなんですよ。


◆脚注

◎一・四後退:一九五〇年六月二五日に北朝鮮軍が三八度線を越境、朝鮮戦争が勃発。当初韓国軍が総崩れとなったが、九月一五日に国連軍が仁川上陸作戦を敢行し、二八日にソウルを奪回。国連軍は北上し中朝国境の鴨緑江に達したが、一〇月から中国軍が進入し再び国連軍は退却。中朝軍が五一年一月四日にソウルを再度奪回したため、南方に避難する軍民の大移動が起こった。

◎ 朝総連:「在日本朝鮮人総連合会」の略称。「朝鮮総連」とも言う。戦後、在日朝鮮人によって結成された在日本朝鮮人連盟(朝連)、在日本朝鮮統一民主戦線 (民戦)に続き、一九五五年五月、民戦の解散と同時に新たに結成された団体。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の海外公民としての立場を堅持し、祖国統 一・民族的権利養護・民族教育促進などの運動を推進している。

◎在日本大韓民国民団:略称「民団」。一九四五年に結成された在日 本朝鮮人連盟(朝連)の方針、即ち共産主義からの脱却・自立を図り、「朝鮮建国促進青年同盟」と「新朝鮮建設同盟」を主軸として、四六年一〇月に「在日本 朝鮮居留民団」として創団。四八年大韓民国樹立後に「在日本大韓民国居留民団」、九四年に「在日本大韓民国民団」と改称。外国人登録令/法への反対・永住権獲得など法的・経済的格差の撤廃、地方参政権付与、韓日民族交流の促進を主な活動としている。

◎建国学校:白頭学院建国小・中・高等学校。民団系の民族学校。一九四六年建国工業学校と建国高等女学校が創立された後、四七年に建国中学校に改称。その後、四八年に建国高校、四九年に建国小学校が設立された。五一年に学校法人の認可を受け、私立学校の資格を取得。
◎大阪教会:「在日大韓基督教大阪教会」の略称。一九二一年、韓国から渡日した神学生のより設立された在日韓国・朝鮮人のための教会。七九年、現在の大阪 市生野区に教会と保育園を設立。現在担任牧師は第八代鄭然元であり、韓国語・日本語礼拝のほか青少年のための教会学校、地域老人のための敬老大学なども運 営。
◎福音新聞:「在日大韓基督教会」(KCCJ)は全国五地方会のもとに約一〇〇の教会・伝道所を統轄するプロテスタント教会によって結成された団体。一九 六八年、KCCJの広報活動として大阪西成教会内に僑文社(株式会社ケイビーエスの前身)が設立され、ハングルによるタブロイド機関紙「福音新聞」を発行 した。
◎朝連:在日本朝鮮人連盟の略称。一九四五年八月、祖国解放を迎えた時期に日本にいた朝鮮人が一〇月に自主的に結成した団体。他方、朝連と対立した青年た ちは朝鮮建国促進青年同盟(建青)を結成。四六年には保守派の人々が新朝鮮建設同盟(建同)を結成。同年一〇月、建同は建青を合わせて在日本朝鮮居留民団 (略称「民団」。のちに「在日本大韓民国居留民団」と改称し、現在は「在日本大韓民国民団」)に改組。四九年九月、GHQの指令のもとに日本政府は朝連に 団体等規正令を適用し、解散させた。
◎ 延辺朝鮮族自治州:中国東北部吉林省南部で一九五二年に延辺朝鮮族自治区創立。五六年に同自治州と改称。州都は延吉市。現在、人口約二二〇万人のうち漢族が五九%を占め、朝鮮族の割合は三九%に低下。中国交正常化後、韓国からの直接投資が急増し、中国の辺境地域としては最も高い経済成長を達成している。




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