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横浜・日本新聞博物館
朝鮮戦争「戦場の記録」写真展

2010年6月26日

6月26日、横浜にある日本新聞博物館で行われている、朝鮮戦争から60年「戦場の記録」展を
見に行った。N.Yデーリー・ニュース写真コレクションから選んだ約200点の写真で、
この戦争の時に帰国し、体験した私。私が見た以上の、悲惨な戦争の生々しい写真を見せられた。
本当に、このような戦争は二度と起こしてはならない。いかなる理由であろうと、戦争反対だ。

案内チラシ

韓国でも見たし、何度も見たこの写真が展示されていた。
私は今までソウルの漢江を渡る避難民と思っていたのが、平壌の大同江を渡る避難民だった。
1950年12月4日、マックス・デスフォー撮影とある。
これは展示された写真を撮影したものではない。展示は撮影禁止だった。

朝鮮戦争は1950年6月25日に起こったのだが、私が戦争を実感したのは、その年の7月11日だった。
そのとき、私は韓国・全羅北道裡里(今は益山)で、国民学校(小学校)3年生だった。学校で授業が終わり先生とサヨナラの挨拶の時、爆弾が落ちて、私は気を失った。
裡里で母親と二人で住んでいた部屋。この釜でご飯を炊いていた。
母親はこの部屋で1952年2月24日に亡くなった。
病名はわからない。
これは1966年8月31日に撮影したもの。
10数年後だが、全く変わってなかった。
それは裡里駅に米軍機による爆撃だった。そのとき多数の市民が亡くなった。米軍が裡里駅を爆撃したのは「北」軍の南下を遅らすためといっていた。
その慰霊碑が建っていた。
これは2004年7月に裡里に行ったとき撮影したものだ。
←1954年秋に撮影されもの。
戦争によって、多くの韓国の子供は学校へ行けず、生きるためには子供であっても働かねばならない。私もソウルにある理髪所で丁稚に入って、住み込みで働いていた。着ている上着は主人の子供のジャンパで、ズボンは軍服だ。
しかし、私の表情は明るい。常に明るい未来の希望を抱いているのだ。
1957年春、日本へ再び来る直前に撮影↑
この年の7月に日本大阪に着いた。
右は裡里中央国民学校(小学校)の同級生である張哲雄君。彼から本を借りて読んでいたので、今の読解力が保れている、いまの私がいると思う。

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