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第2回
i-まだん韓国研修旅行
参加者の感想文

2004年11月20〜23日

フォーラム・アイの「楽しい韓国語講座」を受けている受講生を中心として、韓国研修旅行を行った。

これはその参加者たちの感想です。



プロローグ

大阪生野は住民のうち四人にひとりが在日韓国・朝鮮人の方です。国籍がどうあれ、ご本人が朝鮮民族だと思われている方は朝鮮民族の方です。その段で言う日本に帰化された方、登録はされていなくとも相当にわたり滞在されている方を含めると、割合は到底四分の一では留まりません。大阪商工会議所東成・生野支部異業種交流会フォーラム・アイは朝鮮半島の方との交流を二年前から続けています。韓国語講座、研修旅行と。昨秋、グループで初めてソウルを訪ねました。私にとっても初めての訪韓、ずいぶん意気込んでいました。今回は二度目です。その気負いは減り釜山には楽な気持ちで降り立ちました。

11月20日
楽安邑城民俗村への景色は地方の高速道からの眺めとたがわなかった。屋根や壁のけばい彩りを除いては。30年前の中学生時代。在日の友人が初めて故郷を訪ねた素直な気持ちを語ってくれた。
「古里の田舎はまだ貧しい」
その彼の顔が遠景の車窓に重なった。
夕餉の民俗村。
かまどのほこらで童子が佇む。空に半月。炎は空の茜のように群青に消えていくのだろうか。40年前、母方の里では祖母がかまどで飯を炊いていた。童子が幼い私と重なる。
今だ半月 既に半月

11月21日
1980年5月18日、光州
政権交代の正当性を巡って市民らが蜂起した。10日間にわたる市民と軍隊との攻防の末、戒厳軍は戦車を使いこれを鎮圧。市民の死者、行方不明者は数百人。
その犠牲者が追慕されている「国立5・18墓地」を訪ねた。
蜂起のきっかけは不法に政権獲得を謀った新軍部勢力への拒否と民主化の要求。前の軍事政権から次の軍事政権へと連なる中で起きた。戦後(韓国では独立後)35年を経ての事件だが、果たして私達はこの出来事に無垢でいられるのだろうか

11月22日
木浦
早朝、市内を見下ろす儒達山に登った。傾斜こそ急だが、それこそ水呑地蔵ほどの軽いハイキングだ。
旅立つ前、父と訪問地を話した。
「モッポ、西の方の漁港やな」
「何で知ってんねん」
「小学校で習ったがな。千島列島から満州、インドネシア、ボルネオ、インドまで毎日毎日、地図ばっかり書かされとったんや。産業がなんやとか、何が取れるとか全部習うたわ」
国民学校の上の二年制の高等学校(正式名は違うかもしれません)を出る時、
「家業を手伝うと」と書き、
校長から
「お前は国賊か」と言われた父。
港町モッポにどんな想いを馳せて地図を書いていたのだろう。一枚だけ残る父の小学校時代の写真。ランニングシャツ姿のやんちゃ顔が浮かぶ。
それから60年を経て息子の私がモッポを訪ねる。父のモッポと私のモッポ。二つのモッポはどう交わるのか。歳月を紐解く作業をさらに進めよう。

11月23日
ソウル・南大門市場
行く前に父が、
「朝鮮行くんやったら、ニンジンこうてきて」
「なにすんねん」
「焼酎に漬けるんや。お金払うから」
仕事がら出張や旅行が多いが、これまで父に土産を頼まれたことは一度も無かった。それがである。ぜひ、一等のニンジンを買ってこなければと思った。
南大門市場で太った生の六年根二本で約5万ウオン。意外と安かった。
父は早速、焼酎と漬け瓶を買ってきた。歯ブラシを使って水洗いし、少し乾かして漬け込んだ。
「三年漬けてから呑もう」
側で母が
「それまでに死んでまうわ」
そうなら、私が飲み干してやる

エピローグ
人から気配りが利くと言われる。ただ、私の気配りは相手に分かるような気配りだ。15人の参加者の中で、私以上に気を配りながら、相手にそれを感じさせない方がいらっしゃった。旅行中、自然と体が動き、言葉を掛けられていた。ちょうど一回り上の先輩。一回り経ったら、この方のようになるのだろうか。たいした方です。
プロローグで、「楽な気持ちで釜山に降り立った」と書いた。のだが、文章は気負ってしまったようだ。

高さん、金先生、そして参加者のみなさん、旅行中は御世話になりありがとうございました。

韓国から

   (有)ニューホンコン造花 
          岡田光司

モッポのユダル山で

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