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フィルム・スキャナーで過去を旅する
1948年韓国に帰国し国民学校へ

1948년 한국에 귀국 국민학교

1948年春


フィルムスキャナーで、古いフィルムから現れる過去への旅に出発する。なにがあったのかな。


1947年に韓国・全羅北道、裡里へ母親、兄、3人で帰国。1948年に裡里中央国民学校へ入学した。

やがて、北昌洞に新しくできた、中央市場に母は店舗を一軒購入、乾物屋を営むようになった。
日本においても、大阪森町の市場の前で、乾物屋を営んでいた。

裡里中央市場の店舗で、屋根裏に住まいを構え、3人で平和に住んでいた。

ところが、1950年6月25日、突然朝鮮戦争が起きた。

この部屋で、母と二人で住んでいた。
やがて、1952年2月10日、母は病死した。
病名はわからない。
この写真は、1966年、夏期学校で母国訪問したときに撮影したもの。14年ぶりだが、全く変わっていない。

この写真は2004年7月に「鳳@bongの昔を訪ねて」で行き、撮影したもの。
韓国に帰国して、住んだのがこの場所。そのときは日本家屋であった。左隣が煉瓦の家。この家はそのままあった。
この煉瓦の家は帰国したとき、病院であった。2007年に見たときはカルビ屋だ。
1948年に、裡里中央国民学校へ入学した。
朝鮮戦争が起こり、兄が軍へ引っ張られるし、家庭が貧困になり、1951年、3年の終わり頃、学校へは行けなくなった。
この写真は、1966年、夏期学校で母国訪問したときに撮影したもの。
裡里中央市場。
裡里駅、ここで、寝たこともある。
14年後の中央市場は、以前よりにぎやかだ。
裡里中央市場の前にある井戸。この水で生活した。
裡里市庁。この前で朝鮮戦争中、ガムやたばこを売っていた。
裡里は小さな都市だが、学校が多い。教育都市だ
裡里市の南にある川。ここで私たち子供は泳いで遊んだ。
←裡里中央国民学校の同級生。張哲雄くん。私が3年で学校を辞めた後、私のクラスに転校してきた。この哲雄君に学校のノートや本など借りて読んだ。
これが、今、私が読解力を保てる事ができたと言える。
1951ごろ、兄さんは高校1年だったが、韓国軍の「第二国民兵」として、引っ張られて行った。
残った母と二人で、中央市場の商売も芳しくなく、市場の店舗を売って、裡里市南中洞という、市内から北の方へ行ったところの、煉瓦工場のあと、豚小屋のようなバラックの家へ引っ越した。
長屋の豚小屋のようなところ。中央あたりが、私が住んでいたところ。
煙突が見える。あそこが煉瓦工場だったところ。
1966年に、母と私が住んでいた所を兄と来てみた。
14年前にここに住んでいたときの、幼なじみがまだいた。よく遊んだ子供の時のタチだ。
この部屋で母と住んでいて、1952年この世を去った。
すぐ、近くの小さな丘の所に母親を埋めた。
14年ぶりに、墓参りだ。兄は初めて墓に来た。
今は済州道に高氏の共同墓地に、父と並んで納められている。
これは、2004年に墓参りに行ったときに撮影したものだ。

父と母の墓石だ。
墓石に書かれているのを見ると、父、元国は1902年(戸籍謄本には1901年)2月10日に生まれ、1981年5月29日死亡。母、玄氏(名前は行春だが、名前は書かれてない)は1901年(戸籍はわからないが、父より1歳上と聞いている)1月4日生まれ、1952年2月10日死亡とある。


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