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韓国自転車巡行「鳳のむかし」
ソウル・裡里・群山を訪ねる
<金吉浩の感想>

자전거 순행 옛날을 찾아

2011年5月30日〜6月2日
自転車で韓国を巡行に同伴した金キルホさんの感想文を載せた。


5月30日から3泊4日で、自転車で、ソウル、全羅北道の裡里(現在は益山)・群山をまわった。
キルホさんは、昼食のときなど、私はビールを飲んでも、彼は飲まなかった。
「高先輩を後から見守るため、飲みません」と、一滴も口にしなかった。
その代わり、夜、自転車に乗らないと決まったら、ビールにマッコルリに飲みまくる。
写真は私がDCR-CX520Vで撮影し、キルホさんはDCR-TG1で撮影した。

<韓国、ソウル、益山,裡里、群山巡行記>

 ■2011年5月14<土>午後7時、<太郎>

 5月30日韓国行の最後の打ち合わせの日だった。

高仁鳳先輩、朴正泰さん、私が居酒屋<太郎>で集まった。この日、いや、この日までの高先輩の戦略はお見事だった。3月11日、あの東日本大震災の日より、正泰さんは仕事の関係上行かれなくなっていた。二人はそのことを私に言わずに内緒にしていた。もし、前もって私が分かった場合は、私も行かない確率が高いから言わなかったと言う。

その通りだった。私が先に分かっていたら200%行かなかっただろう。

正泰さんが行かなかったら、寂しいとか何とか言い訳をつけて今度の韓国行は幻に終わった筈だった。それを見抜いた高先輩の戦略は200%勝ちだった。

 それで決まった自転車による韓国行だった。

  5月17日、朴先輩の愛車<折りタタミ自転車>と高先輩のビデオカメラを借りて特訓が始まった。大阪城と御勝山公園で自転車の折りたたみの方法とビデオの撮り方等だった。

  ■5月23日<月>

 雨の日だった。
迷いながら傘をさして堺市まで出勤し、退勤する時も大雨の中、家路についた。大和川の坂道を下りる時、自転車ごと引っくり返ってこけた。
急な坂道で傘をさしたのでハンドルの軽さをコントロルできなかった。左の膝と肘のズボンとYシャツがちぎられて血が流れていた。

自転車はチエーンがはずれて回らない。最悪だった。傘もさされずに自転車を約1.5キロを引っ張っていき、雨宿りをしながらチエーンを直すことができた。
 今もその時の傷後が鮮明に残っている。一生消えないだろう。

  ■5月30日<月>大阪<雨、曇り>ソウル<晴れ>

 韓国に出発の日だがまた雨だった。
幸い関西空港へ行く間に止んでくれて良かった。
高先輩は自分が晴れ男だから止んでくれたと言っていたが、このセリフは韓国に行った間も繰り返される位、韓国の天気は雨の予報が多かったが持ち直してくれた。

 高先輩の晴れ男ということも当てはまるかも知れないが、日頃の私の行えが良かったのがもっとよかったと、私は内心思っていた。
だって、特訓の時、大雨の中で怪我もし、厄払いもしっかり済ませたのだ。
 関西空港の出国審査の時だった。

 高先輩が途中で中止のまま事務所に連れて行かれた。その理由も知らない私は驚いた。

それじゃなくても最も緊張する場所なのに事務所まで連れて行かれることは普通のことではない。
私はその事務所に居る高先輩をビデオで撮り始めた。

そうしても関係者らが制止しようと誰も動かないので安心した。
高先輩に重大な落ち度があるならば私がビデオを撮るのを放置しない。
後で分かったが、この前、韓国から高先輩が日本に戻る時、入国審査係りが旅券にスタンプの押し忘れが見つかったという事だった。
まったく、間抜けの審査係りだったが、おそらく叱られたと思う。

 ソウルの天気は、まさしくさつき晴れだった。
金浦空港から二人は地下鉄で光化門駅で下りて教保文庫で私が買いたかった本<前衛的抵抗の政治性?;高明哲29,000ウォン>を買った。

そして、光化門広場に行って我が国の聖君、世宗大王と聖雄、李舜臣将軍の銅像の前で二人は挨拶をし、お巡りさんに頼んで写真を撮ってもらった。

  この後からが大変だった。

大阪の田舎、いや、生野区の田舎者がソウルの中心街を生まれて初めて自転車で走るのにそれは命賭けだった。決して誇張された表現ではない。
高先輩はそうした私をほっといでまるで、水を得た魚のように車の流れに乗り、ぐいぐいと走る。
人が歩く歩道もあるのに車道を走るから私は怖くて一緒に走れない。
信号待ちで歩道を走りましょうと言っても聞かない。

車線が走りやすいし、大丈夫だから後ろについて来なさいと言ってまた走る。

私も自転車を乗って走るのは自身を持っていたがお手上げだった。
 この時、ふと思った。

飛行機の中でくれた缶ビールを飲まずにガバンの中に入れたことが本当に良かったなと。
缶ビール一本位と思うかも知れないが、もし事故にでも遭ったり、巻き込まれたら大変な事になるので、夜以外は一滴のアルコルも飲まないことを決めた。

韓国に帰ってこうして昼、飲まなかったのは、在日40年の中で初めだった。
 高先輩が朴先輩と韓国に自転車巡行を10回位しながらでも、事故に一度も遭っていない。
もし、今度誰のせいにせよ事故でも起きれば面目がない。誰にせいでもなくじゃなくて私のせいと思うかも知れない。
年も私がはるかに若い。私が守らなければならないのだ

本当にこの時だけは自転車で韓国に来たことを率直に後悔したが、来た以上仕方ない。
 家族らが保険に入ってから行きなさいと何回も言われたのにそれも無視してソウルに来たことはもっと後悔した。
後で日本に戻って、高、朴先輩と打ち上げ会の時、朴先輩がこうした高先輩を、”命を捨てた人”と言った時、本当にそう思った。

 光化門広場を出て乙支路と忠武路に入って本格的な思い出探しが始まった。
<首都理髪店>の場所の後はあったものの周囲の環境は変わっていた。
高先輩がその理髪店に勤めるときからあった食堂で昼の食事をしたが、代わった主人は約60年前のことを全然知らない。
私も少し寂しかったが高先輩はもっと寂しいだろう。

 高先輩は私にビールを勧めながら飲んだが、私はこれから朝と昼は絶対、飲まないから勧めないことを申し入れ断った。
それ以後、高先輩は二度とビールを勧めなかったことは幸いだった。

  日本に来る前の最後の場所を後に明洞、ソウル駅を通って龍山駅に着いた。

地下鉄で行こうという話しも出たが市内を自転車で走りたくて、そのまま走ったが高先輩の車道を走る行動力には怖さを感じながら脱帽した。
うしろで緊張しながら私はついて行ったが、高先輩の走る姿は悔しいが絵になる位、美しかった。

 龍山駅の横のドラゴンスーパのチムジルバンを予約して周囲の居酒屋に入った。
注文したオジンオボクムは辛すぎたし、ソーセージの料理は国籍不明の料理だった。
高先輩はビール二本、私はマッコリを三本飲んで戻ったが、私はチムジルバンは初めてだった。
 広い店でお客も多かった。寝るところが一杯でトイレ行って来ると私の場所は他の人が寝てしまう有様だった。
その位お客さんが多いところだったのでほとんど寝られなかった。
慣れすぎた高先輩は完全にマイペースで適応していた。兵隊行った時の新米兵士と古参兵士の関係の様で一人で苦笑いした。

■5月31日<火> 晴れ

 朝5時に起きた。

起きたというより、高先輩が寝るところから下りて来たから今日の仕度をし始めた。
私はフロントがあるそばのソファでうとうとしていた。
 もう一度お湯に浸かってチムジルバンを出て7時20分のKTX韓国新幹線に乗った。

韓国で一番早い電車だ。韓国の新幹線と言われてる電車だがそのような話を聞かれなかったら、京阪、近鉄線の二人座席の特急位の印象しか持っていなかったかも知れない。
車両が狭いし、回転座席でもないのに座席の半分は進行方向とは反対だった。
 発想の貧困というより、この電車を設計した設計技師らの意地悪としか思えない。

電車の中で買った弁当を食べながら私は日記を書き、高先輩はいつ買ったか知らない缶ビールを飲み、私が飛行機の中でもらった冷えっていないビールもまた飲む。
本当にビールが好きだ。

  朝9時30分を少し過ぎて益山に下りた。
1995年まで裡里市の地名だったが変わった。小ぢんまりした駅だった。
階段を下りるとき驚いた。普通の階段の上に車輪がついたガバン、自転車らが通りやすくするために別の滑り台のようなものが置かれていた。
益山駅のベストのアイディアだった。
また、改札口が無いのも驚きだ。
日本だったら安全上の問題であり得ない発想かも。

 駅の観光案内所で話を聞いて、まず中央市場に行った。
高先輩のお母さんが店を開いたところだ。
60余年の前の痕跡は影も形もないんがその流れの余韻は漂っているような気がした。
これは市場に限ったことだけではない。

裡里女子中学校を訪ねて行った時もそうだった。
中学校は他のとこに移転し、高校になっていた。その校舎の壁、正門だったところには残っていた。

 次に行ったところが裡里中央初等学校だった。

開いたままの正門から自転車を乗ったまま入った。
守衛室の二人が不思議そうに私らを見るが何にも言わない。日本では考えられない状況だ。
先の女子高校もそうだが正門は開けぱなしで先生や生徒らに声をかけても親切に応対してくれた。

 私は韓国社会の健全性を垣間見た気がした。

日本は今、ある意味で病みの社会に入ってしまっているから学校に理由もなく乱入してとんでもない事件を起こす。
理解不能なできことである。決して私の偏った偏見ではない。

 守衛の人にあいさつをし、小学校を中からまた表から一周をしてその当時通った筈の道を通って家を目指す。
 勿論、昔の家はない。
小さな路地はそのままだった。
その場所で子供の頃、遊んだことを私に語ったくれる高先輩に憐憫の情を催す。
その時の幼い友人は殆ど居ない。こうゆう時一人でも益山に居ればおそらく朝まで語り会うだろう。

 昼は品と重みがある食堂<ハンゴウル>で煮付けの太刀魚を食べた。
老夫婦が経営する広い食堂に私たち二人しかいない。
前は隣が結婚式場だったが、今は葬式場になってしまって食事もそこで全部するからお客がいないということだった。

このできことは時代の流れではなく、その地域に取り巻く力の関係だと女主人が寂しく笑いながら聞かせてくれた。
食堂を後に、お母さんといつも一緒に行ったことがある旧市場の南部市場を回って、移転した第一教会に行った。
誰もいない教会の留守犬の吠え続ける声だけが昼下がりの静かな路地に響き渡る。

 <この真っ赤なバラだけはビデオに撮っても本物の色が出ないんだよ>
教会の塀に綺麗に咲いたバラを眺めながら高先輩が独り言のように呟く。

  次に訪ねたとこも教会だった。
<新光教会>で昔、遊び場として行ったことがある教会で、前は奥さんと来たとき、教会の方が親切に案内してくれたので、そのお礼も兼ねての訪問だった。
移転したために少し遠いところにあったが、全北大学校の正門の斜め向かいだった。
先ず、その建物の大きさに圧倒された。
2階に上がって受付の方にその執事の方のことを聞いた。
礼拝は来ているが勤め先は変わっているという。

 高先輩と私はその階だけ見物した。立派な施設だった。
結婚式場から各種の語学院、色んな文化教室がどこかの文化会館のように案内状が貼ってあった。
極め付きは屋上にある天然芝のサッカー場であった。
教会と道を挟んだまん前に中学校があったが校舎も土のままの運動場もこの教会と比べるととてもみすぼらしかった。

 原罪と自分自ら犯した罪<一般罪>を懺悔し、神様に救援を求めるためにみんなはそれぞれの教会に通う。
 すべての宗教はお祈りから始まる。
自分の弱さだけではなく、すべでの人間は弱いということがその根本にある。
そのお祈りは欲の祈りであってはならない。
懺悔と共に他人に与えられる愛の心を持つ力を私にくださいという祈りでなければならない。
その祈りの場所は即ち、神様が宿る場所でもある。

 <新光教会>は素晴らしい建築物だったが、魂がない教会のように見えてとても違和感を感じた。
営利を目的にした巨大な会社にしか私には映らなかった。

それより、大阪教会の礼拝堂がもっと癒され、純粋なお祈りの余韻が漂っていると思う。
最近は全然、大阪教会も行かないが15余年前はそれなりに行ったことがあるから自信もって言える。
 いつか,また行きたいが教会を出てすぐ神様の言葉に反する事を、起こす自分をよく知っているから行けない。
 教会を丁度出る時、戸田さんから高先輩に電話があった。4時に益山に着いて朴レシン先生と会ったと言う。
5時半頃益山駅で会うことで電話を切って駅に向かって走る時戸田さんと朴先生が車で来た。
朴先生奥さんも高校の先生だが井邑市で来るから時間が掛かるという事だった。
約一時間半位、時間があるから彌勒寺址行くことにした。

 去年NHKテレビにも紹介されたお寺の遺跡だった。現地に5時頃着いた。
百済の歴史が眠っている益山でその歴史が悠久の冬眠から目が覚めのだ。
案内事務所で富田林市と堺市から訪れた日本人の中年女性、二人と出会った。
益山の彌勒寺址まで来るなんて正直驚いた。
ベヨンジュンの韓国文化巡りの本を読んで、その通り周っていると言う。
十日の旅だとつけ加える。

 日本において韓国のイメージと文化をベヨンジュンのように変えさせた韓国の政治家と外交官は一人も居ない。
彼は韓国文化革命を日本で起こした人物として歴史に刻まれるだろう。
彼に対して好き、嫌いを感じるのは人それぞれであるがこのことだけは紛れもない事実である。

6時まで親切な解説者が案内して下さって山麓の夕日ととてもいい探訪だった。朴先生には心からお礼を申し上げたい。市内に戻ってパオラモーテルに宿を決めて、朴先生の奥さん、羅スギョン先生を迎えに自宅がある団地まで行った。
夕食は先生らがよく行く居酒屋<ドンマコル>ですることにした。

その席で改めて正式にあいさつをし、高先輩は箸をお土産に、私はタバコと私が書いた短編小説をコピーしたものを差し上げた。しばらく色んな話をしながら飲む時だった。

”今日の主役は吉浩じゃなくて私なのに自分の話は朴先生しか聞いていない”
と高先輩が言い出した。最初はどいうことなのか私は知らなかった。
つまり、私が戸田さんと羅先生と話して高先輩は朴先生とだけ話しているから席の話題がばらばらやし、本当は自分の小学校の時<益山;裡里>のことを聞かせたかったのに、私が全然、関係ないことを話すからそれに対する不満だった。

私はハットした。そうしたことを私は大阪で酒のさかなでまた、益山に来て周りながでも聞いた話だったので考えていなかったことだった。
前もって、高先輩の気持ちを分かっていたら、私はオシのように何にも言わずに黙っていたと思う。

その上、高先輩はジョンテ<正泰>さんが一緒に来た時はいつも自分の話に従うのにキルホはそうじゃないとも言った。

 雰囲気が微妙に変わっていた。

私が従わなかったことはただ一つあった。
運動靴を履いていくように言われたが私はいつも履いている靴を履いた。
理由があった。

その靴は、靴底に穴が開いて砂利道を歩く時は砂利が靴の中に入ってくるときもあった。
特に寿命を全うし捨てる時期が過ぎていた。何年間、生死苦楽を共にしてきた靴だ。
この機会に我が母国、韓国の土を堂々と踏ませたかった。
そこでだめなら新しい靴を買うつもりだった。
幸い丈夫で戻ってくるまで頑張ってくれて今も履いてる。
韓国に帰って電話一本もかけてなかったし、知り合いも会っていない。

初めてお互いの葛藤の衝突だった。

 その時、朴先生が私に益山の文人らが隣の席に来て座っていると教えってくれた。10余名だった。
私はその席に移して自己紹介後、彼らと同席した。

高先輩は先に帰って私は後に帰ったがパラオに横にコンビニがあり、朴先生らとまた飲んで別れた。
 この欄を借りて朴先生らにお礼と私のために夜遅くまでなってしまったことをお詫びする。
勿論、高先輩にも同じ気持ちである。

 私が益山の文人らと会って交わした言葉やできことはここでは略することにする。
全く知らないところで偶然に益山の地元の文人らと会ったことは不思議なことだった。

 ■6月1日<水>曇。晴れ

  朝6時ごろ目が覚めた。
約2,3分位どこなのか全然分からない。私はベッドの下に下着のままで寝ていた。
ベッドを見ると高先輩が寝ていた。その時、はじめでここが益山のモーテルであることが分かった。
服を整理しながら見ると旗がない。
いくら探してもなかった。高先輩はまた寝ていた。
静かに起きてシャワーをした。
シャワーを終えて部屋に戻ると何時に帰ってきたのかと高先輩がら聞かれたがはっきりした時間は分からない。
<ドンマコル>が11時頃終わって、パラオ横のコンビニで少し飲んだから12時前後だと思う。

 私は旗を忘れていると告げると高先輩が戸田さんに電話をして確認する最中に旗はテレビの後ろにあった。
高先輩はまた電話をし、私が酔ってしまったことと旗のことで電話したことを謝った。
高先輩は私が下着で寝ながら、いびきをかくのをビデオで撮ってるからおそらく音も入っていると言う。
大阪に戻ってからその映像を本当に見られるかも知れない。

高先輩もシャワーをしてパラオをでたのは8時ころだった。もう一度、中央市場を見ることにしたので行った。
朝早くから開いている店もあり、二人は二回ほど行ったりきたりしながら見て回った。
その後、小さな食堂に入って食事を済ませもう一度、中央市場に行った。
昨日からまた今日も商店街を回りながら即席焼きのりの店があって買いたくて買いたくて仕方なかった。
昨日も買うと言い出して高先輩からいわれた。今買うと荷物になるだけだから群山行って買うか空港の免税店で買えばいいと言われたがこのように即席焼きのりはない。
私は18個をその店で買って、入らないリクサクに無理して入れた。
 セマウル号を乗って9時50分頃出て行って10時半前に群山駅に着いた。
新しい駅で市内とはるかに離れたところで民家ところか駅に店もない。
改札口もない駅を出て約4、50分自転車で走って群山市庁に着いた。

案内係りに日帝時代の建築物のことを聞いて、広津家、東国寺、旧群山税関をまわった。
旧税関で高先輩の自転車がパンクした。
自転車屋まで約50分位自転車を引っ張って行って直した。 <高麗自転車商社>という店で経営者の名前はチェ・スチュル氏だった。

 <大阪からわざわざ自転車を乗って、韓国に来られて群山まで来てくださった方にパンク代を頂くのは、申し訳ないことです。群山まで来てくださったことだけでもありがたいことです。群山の旅を楽しく終わって大阪に帰ってから群山をPRしてください。>
パンク代は知れてる。
しかし、チェ社長は知れてるからサービスするのではなく群山市民の一人としてあなた方らが群山まで来てくれたことに対する礼儀だと言う。
チェ社長の論理は素晴らしかった。
結局パンク代は払わずに高先輩は持っていった箸を記念に上げた。
私はその論理と高い市民意識に感動して胸がジンときた。

 自転車を直して日帝時代の朝鮮銀行を見に行った。工事中だった。
群山市はこうした建築物を壊そうとした時期もあったらしい。
しかし、保存することによってその時代のことをもっと知ることになるから大事に管理していた。

その通りである。
記憶の中の歴史は忘れ去られてしまう。

私らもそのものがあるから群山まで行ったのだ。歴史を選別するのではなく、ありのまま見せる、また教えることによって、生きた歴史になり、現代と繋がりを持つことになる。
群山の遺跡は私らにそれを教えてくれた。

 この群山は高先輩が子供の時に一人で来たことがあると言う。
何のためにかそれは本人も忘れたが、益山から歩いて往復したことを考えると切ない気持ちでいっぱいだった。
まともにご飯も食べられない時、どんなにお腹が空いたのかみんなが想像して見ればいい。
この日はビビンパブを食べて<ヒャンドヂャン>という旅館に泊まった。

 ■6月2日<木> 晴れ

  朝起きて8時頃出発しよとするとまた高先輩のタイヤが一が所ふくれ上がっていた。
走るとそこが異物が入ったようにスムーズに走れないという。またその自転車屋に電話すると、来てくださいと丁寧に応対してくれた。
タイヤガ磨耗してちぎれる手前だった。
タイヤ取り替えたのに、今度もお金はもらはないと言い出したが高先輩がお金を無理に手に握らせた。
素敵な出逢いだった。

  セマンクムにいくために行ったがあまりにも遠いから戻って来る時は、裏道を通ってきた。
群山のあの平野に広がる麦畑見事だった。
北海道の富良野、美瑛のような華やかさないが緑から実る黄金の色に染まる風景は癒される心と韓国の豊かさを同時に私らに与えてくれた。

 群山から昼、2時半の高速バスを乗って仁川空港に着いたのは5時50分だった。
運転手の言葉通りの時間だった。
空港で手続きを終えて7時15分の飛行機に乗って関西空港に着くと8時前だった。

9時のリムジンバスを乗って10時に上六着。そこで自転車に乗って、桃谷公園の前で高先輩と別れて家に帰ると10時半だった。

 これで3泊4日の巡行は終わった。

 ■エピーログ

  高先輩が、幼年期の住んでいた第二の故郷、益山(裡里;イリ>を同行した。
忘れられない残像を求めてソウルから始まって群山まで行った。
その残像はほんの僅かな面影を残していた。
その二つの残像はまたオーバーラップされて一つの新しい残像を創り出すだろう。
それは残像と言うより、新しい出逢いを意味する。

 私には同行中、その記憶は全く無かったが、胸にくるものが結構あったが、その反対のできことも言わないといけない。

私が益山で酔ってベッドの下で口を開け、いびきをかきながら寝る姿をビデオで見た。
紛れも無いもう一つの私だ。
この話を私の家内に言うと待ってましたと言わんぱかりに。
<私がいままで言ってることがウソじゃないことを分かるわね!>
そのビデオを高先輩から頂いたが見せていない。
隠すのではなく、家内の話が本当の話だから見せる必要性か無くなってしまたからだ。
これも私には忘れられない残像の一つとして残るだろう。

    <終>

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■韓国自転車巡行「鳳@bongの昔を訪ねて」ソウル編<1>
■韓国自転車巡行「鳳@bongの昔を訪ねて」益山編<2>
■韓国自転車巡行「鳳@bongの昔を訪ねて」益山・群山編<3>
■韓国自転車巡行「鳳@bongの昔を訪ねて」群山・バスで空港へ<4>


■韓国自転車巡行のためトモダサイクルで点検(2011/5/26)
■韓国自転車巡行の準備始める(2011/5/17)


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